オデロの死についての語りです。
グロの話に繋がるので、畳んでおきます。
#オデロ
オデロの死、最初のころはわりと受け入れていた。
けど、それは彼はこうなるべくして生まれた運命なんだ、と無理やりに納得させていただけなのかもしれない。
今年の春辺りから、いろいろ二次創作を描いた。
ゲームの生存ifも見た。
明るい日常や、ギャグ、それとやおいや男女カプも描いた。
どんどん彼への気持ちが大きくなり、次第に彼の死を受け入れられなくなっていった。
どうしても「なんだか違う」と感じてしまう。
生存ifや、「あのとき生き残れていれば」の感情って、それは、彼の死を軽んじてしまう気がしてならなかった。
彼の死は、簡単に救済され、「よかったね」と片づけられるようなものではないと思っている。
それだけ、重く、深く、取り返しのつかないものであると思っている。
だからこそ、安易に「生存if」で慰められることができない。
それはもう、アニメの一キャラクターへの愛情のかたちというより、信念に近い執着なのかもしれない。
どうしても見たいイメージがある。
最近になって、初めて自分でも戸惑うような感情が湧いてきた。
オデロの解剖を見たい、という強烈な欲望だ。
基本的に版権キャラクターのリョナやグロは苦手なタイプなのに、彼にだけ、そのような欲が出てきていた。
昔、なんとなく観た映画『黒い太陽731』のような、感情のない、淡々とした少年の体の処理。
そこに友人も仲間もいない。
医師の記録だけが淡々と続いていく。
ただ彼の身体が「死体」として扱われ、臓器が確認され、記録されていく。
そういう場面を、どうしても見たいと思ってしまう。
最初は単に好きが高じたものかと思っていた
しかし、これはグロテスクな衝動ではなく、「どうしても死を現実として受け止めたい」という切実な願いなのかもしれない、と気づいた。
誰かが彼の死を“記録”してくれないと、自分の中ではまだ、オデロがちゃんと死んでいないのかもしれない。
「彼は本当に死んだんだ」と納得するためには、感情ではなく、物理的な手順と記録で“確かめる”しかない。
だからこそ、漫画で描くしかないのかもしれない。
この気持ちは、おそらく言葉では整理しきれない。
だから、もうこれは自分で漫画で描くしかないのかもしれない、と最近は思っている。
でも実際に描くのは、とても難しい。
ただ淡々と、彼の身体が開かれ、内臓が記録されていくだけの漫画。
読者の感情を動かすものではなく、悲劇でもなく、ただ「死後の事実」を描くもの。
そんな作品が果たして成立するのか、自分でもわからない。
それでも、描かなければ、この気持ちはどこにも行けない気がしている。
誰かに依頼して描いてもらおうとも思ったが、これは自分自身が描いてこその供養や受け入れなんだと思う。
オデロの死を、わたしはまだ受け入れられていない。
何度も本編を見返すたびに、「本当に彼は死んでしまうのか?」と問い直してしまう。
だからこそ、その死を、絵と物語にして確かめたい。
それが赦しになるのか、供養になるのか、
ただの自己満足になるのかは、まだわからない。
でも、描いてみたい。
そう思っている。畳む
グロの話に繋がるので、畳んでおきます。
#オデロ
オデロの死、最初のころはわりと受け入れていた。
けど、それは彼はこうなるべくして生まれた運命なんだ、と無理やりに納得させていただけなのかもしれない。
今年の春辺りから、いろいろ二次創作を描いた。
ゲームの生存ifも見た。
明るい日常や、ギャグ、それとやおいや男女カプも描いた。
どんどん彼への気持ちが大きくなり、次第に彼の死を受け入れられなくなっていった。
どうしても「なんだか違う」と感じてしまう。
生存ifや、「あのとき生き残れていれば」の感情って、それは、彼の死を軽んじてしまう気がしてならなかった。
彼の死は、簡単に救済され、「よかったね」と片づけられるようなものではないと思っている。
それだけ、重く、深く、取り返しのつかないものであると思っている。
だからこそ、安易に「生存if」で慰められることができない。
それはもう、アニメの一キャラクターへの愛情のかたちというより、信念に近い執着なのかもしれない。
どうしても見たいイメージがある。
最近になって、初めて自分でも戸惑うような感情が湧いてきた。
オデロの解剖を見たい、という強烈な欲望だ。
基本的に版権キャラクターのリョナやグロは苦手なタイプなのに、彼にだけ、そのような欲が出てきていた。
昔、なんとなく観た映画『黒い太陽731』のような、感情のない、淡々とした少年の体の処理。
そこに友人も仲間もいない。
医師の記録だけが淡々と続いていく。
ただ彼の身体が「死体」として扱われ、臓器が確認され、記録されていく。
そういう場面を、どうしても見たいと思ってしまう。
最初は単に好きが高じたものかと思っていた
しかし、これはグロテスクな衝動ではなく、「どうしても死を現実として受け止めたい」という切実な願いなのかもしれない、と気づいた。
誰かが彼の死を“記録”してくれないと、自分の中ではまだ、オデロがちゃんと死んでいないのかもしれない。
「彼は本当に死んだんだ」と納得するためには、感情ではなく、物理的な手順と記録で“確かめる”しかない。
だからこそ、漫画で描くしかないのかもしれない。
この気持ちは、おそらく言葉では整理しきれない。
だから、もうこれは自分で漫画で描くしかないのかもしれない、と最近は思っている。
でも実際に描くのは、とても難しい。
ただ淡々と、彼の身体が開かれ、内臓が記録されていくだけの漫画。
読者の感情を動かすものではなく、悲劇でもなく、ただ「死後の事実」を描くもの。
そんな作品が果たして成立するのか、自分でもわからない。
それでも、描かなければ、この気持ちはどこにも行けない気がしている。
誰かに依頼して描いてもらおうとも思ったが、これは自分自身が描いてこその供養や受け入れなんだと思う。
オデロの死を、わたしはまだ受け入れられていない。
何度も本編を見返すたびに、「本当に彼は死んでしまうのか?」と問い直してしまう。
だからこそ、その死を、絵と物語にして確かめたい。
それが赦しになるのか、供養になるのか、
ただの自己満足になるのかは、まだわからない。
でも、描いてみたい。
そう思っている。畳む